京の庭を訪ねて:庭園を通じて京都の「緑の文化」に触れてみませんか?

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等持院庭園  とうじいん

庭の概要

所在地 京都市北区等持院北町
電話 075-461-5786
作庭年代 本文参照
作庭者 本文参照
様式 池泉式
寺社の創建年代
文化財指定・登録状況
敷地面積 約3,000㎡
公開状況 公開(有料)

歴史・いわれ

等持院庭園の画像 東側(心字池)

等持院は、臨済宗天龍寺派の古刹で、室町幕府を開いた足利尊氏が暦応4年(1341年)、夢窓疎石を開山に創建したのが始まりです。開山当初は、洛中にあった「等持寺」の別院として「北等持寺」と呼ばれましたが、尊氏の死後はその墓所とされ、尊氏の法名をとって「等持院」に寺号を改めました。

開山以来、足利家の菩提寺として発展し、北山に大きな寺域を占めていました。しかし、室町幕府の衰退とともに荒廃していったようです。

 

江戸時代の初め、慶長11年(1606年)に豊臣秀頼によって復興されました。その後、文化5年(1808年)に多くの建物を焼失しましたが、再建されて今に至っています。現在の方丈は、元和2年(1616年)、妙心寺塔頭海福院から移築されたものです。

 

庭園は、尊氏の墓を境にして、東西2つの池を中心とした庭に分かれています。

 

東部の庭園は、方丈の東側にあります。池底の状況などが室町時代の作庭をうかがわせるので、開山の夢窓疎石(むそうそせき)が作庭したという説があります。ただし、室町時代の記録と充分に整合していない点もあるため、はっきりしたことはわかっていません。

 

※夢窓疎石(夢窓国師)……鎌倉時代から室町時代にかけての著名な禅僧。各地を巡遊、寺を開基し、自ら作庭を行いました。京都市内では西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭園などを手がけています。疎石は法諱。

 

西側の庭園は方丈の北側(書院の東側)にあります。起源は東側と同様にはっきりしていません。しかし、江戸時代の絵図に現在と非常によく似た景観を見せているものがあるため、慶長年間(1596~1615年)に再興されたときの姿が今も伝えられていることがわかります。文化5年(1805年)の火災以後はかなり荒廃していたようですが、昭和10年代前半(1935~1940前後)に池の浚渫や護岸の修復によって昔の姿に復元されました。 

見所・みどりの情報

等持院庭園の画像 西側(芙蓉池)

東西どちらの庭にも中島のある池が作られ、橋が架けられています。東の池を心字池(しんじいけ)、西の池を芙蓉池(ふようち)と呼び、2つの池を流れがつなぎ、西の芙蓉池からの水が、東の心字池に流れ込んでいます。

 

東側の心字池の庭は、曲線を強調した自然的な造形です。池の周囲にはモミジなどが植えられ、閑静なたたずまいをみせています。詳しく見ると、池の岸に据えられている石は少なく、だいぶ改修されたとも考えられます。

 

※心字池……池の形が「心」字のような形をなしているものを指し、鎌倉、室町時代の庭に見られ、等持院のものは有名です。実際に心字形でなくとも、池の中に中島を置き、岸辺のどこから眺めても全形が見えないような複雑な形の池をいうこともあります。

 

西側の芙蓉池は、南の方丈、西の書院、北の茶室・清漣亭(せいれんてい)の3つの建物に囲まれ、三方から眺めることができます。清漣亭は小高い場所にあり、芙蓉池を下に見下ろす態となっています。なだらかでやや平面的な東側に比べ、立体的な造りになっています。

 

西側の芙蓉池の中島には2つの石橋があり、かつてはもう1つ土橋が架けられていました。また、中島の中にも飛石が据えられているので、おそらく茶事の際に、飛石伝いに中島を通って清漣亭に向うこともあったと考えられます。中島を神仙や蓬莱山といった神聖なものとしてとらえることの多かった中世期には、中島に飛石を据えるといった機能的な造作を行なったとは考えづらいため、慶長11年(1606年)の再興の前後に庭も改修されたと考えたほうがいいようです。

 

※蓬莱(ほうらい)……中国の神仙思想の考え方で、東方海中にある仙人の住む山を蓬莱山と呼びますが、これを庭の池の中島に見立てた場合、蓬莱島と呼ばれます。

 

東西の池の周りには多数の樹木、草が植えられており、春の有楽椿(うらくつばき)やサツキ、夏のサルスベリ、秋の紅葉などが楽しめます。冬場は落ち着いたたずまいとなりますが、ヤブツバキの花やクロガネモチの実が緑を際立たせています。副住職の川勝承哲さんは「春や秋はもちろんきれいですが、むしろ一番いいのは枯淡な冬の姿。とくに、うっすらと積もった雪の景色がいいと思います」と話しています。 

手入れのポイント

近年、背景の衣笠山の山すそが開発されたため、庭から山が見えなくなってしまい、樹木で周囲の建物を隠しています。また、衣笠山から池に引いていた水路も絶たれてしまいました。現在、池の水は井戸水をくみ上げて循環させていますが、藻の繁茂を防ぐため、貯水槽を設けて水をろ過するなど、維持にはいろいろと苦労されているそうです。

文化財の指定/関連の文化財

霊光殿に、歴代の足利将軍の木像を安置しています。これらの像は、実物に忠実に作られていると伝えられています。

 

日本映画の父といわれるマキノ(牧野)省三氏は、京都の映画界の復興のため尽力し、大正10年~昭和8年(1921~33年)まで、等持院境内に撮影所を建設し、活動しました。そのマキノ氏の銅像が等持院前の墓地にあります。

 

引用・参考文献・資料提供

【引用・参考文献】
・都林泉名勝図会、秋里籬島、1799
・京都名園記(中)、久恒秀治、1968、誠文堂新光社
・日本庭園歴覧辞典、重森三玲、1974、東京堂出版
・集成 日本の古庭園(下)、岡崎文彬、1985、同朋舎出版
・日本の庭園(下)名庭鑑賞、1994、日本通信教育連盟
・京都・山城寺院神社大辞典、1997、平凡社
・京の古寺から20 等持院、井上博道・川勝承哲、1997、淡交社
・中根金作京都名庭百選、中根金作、1999、淡交社

【取材協力および資料提供】
等持院

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