京の庭を訪ねて:庭園を通じて京都の「緑の文化」に触れてみませんか?

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勧修寺庭園(氷池園)  かじゅうじ(ひょうちえん)

庭の概要

所在地 京都市山科区勧修寺仁王堂町
電話 075-571-0048
作庭年代 本文参照
作庭者
様式 池泉式
寺社の創建年代
文化財指定・登録状況 京都市の名勝
敷地面積 9,900㎡(文化財指定面積)
公開状況 公開(有料)

歴史・いわれ

勧修寺庭園(氷池園)の画像 氷室十五勝の「緑鳧(りょくふ)州」。背景は牛尾山

勧修寺は9世紀末から10世紀初めにかけて、宇治大領であった宮道弥益(みやじのいやます)の邸を寺としたのが始まりとされています。ここが寺とされたのは、宮道の孫胤子(インシ)が宇多天皇の女御、醍醐天皇の生母となったことに由来します。醍醐天皇は昌泰3年(900年)、胤子の遺志により伽藍を創建し、勧修寺としたと伝えられます。

 

この地が宮道邸だった時期には、すでに池のある庭が作られていたようです。時代は下りますが、鎌倉時代にはその様子が歌に詠まれるなど、かつての優美さをしのばせていたようです。

 

時を経て、応仁・文明の乱(1467~77年)で勧修寺は焼失・荒廃しました。さらに、豊臣秀吉が境内中央に伏見桃山城につながる伏見道を設けたため、境内は南北に分断されました。また、最終的には、寸断された南側の地は勧修寺の境内からはずされてしまいました。荒廃していたとはいえ、古来の名刹を分断する道をわざわざ付けたことについては、勧修寺と秀吉の間に何らかの不和があったとする説が有力ですが、はっきりしたことはわかっていません。

 

江戸時代に入ると、徳川幕府や皇室の援助もあり、17世紀末にはほぼ今見る状態にまで復興されました。庭については明確な記録は見つかっていませんが、境内が半減したため、池も分断されて埋め立てられ、相当縮小してしまったことは想像に難くありません。庭は江戸時代の復興の時期に合わせて修復されたと考えられます。

 

江戸時代は、門跡寺院としての法脈を保ち、境内に大きな変化はなかったと思われます。18世紀末頃の絵図には、大池「氷室池(ひむろいけ)」を中心に、「氷室十五勝」と名づけられた中島や池の周囲の亭や橋、滝石組などの様子が描かれています。「氷室」の名は平安時代、池の氷が五穀の豊凶を占うために宮中に届けられたという伝承があるためで、庭園は別名「氷池園(ひょうちえん)」と呼ばれます。

 

明治に入ると、廃仏毀釈の動きとともに、門跡が還俗されたために皇室からの援助もなくなり、苦しい時期を迎えました。さらに第2次世界大戦中は宮中から移築した建物が陸軍病院の分院として使われたり、境内がサツマイモ畑やレンコン畑に開墾されてしまうこともありました。

 

歴史に翻弄された勧修寺ですが、戦後になり、近隣住民、檀家の奉仕にも支えられ、徐々に寺容が取り戻されていきました。「氷室十五勝」は失われてしまったものがあり、すべてを復興するには至っていませんが、そこに数えられた3つの中島はかつての様相を取り戻し、また植栽も徐々に整えられています。

 

境内はこの氷室池と、枯山水のある平庭部分に大きく分かれています。

見所・みどりの情報

勧修寺庭園(氷池園)の画像 平庭のハイビャクシンと勧修寺型灯篭

池にはカキツバタ、ハナショウブ、ハスが植えられ、水辺の花を楽しめます。また岸辺にはウメやサクラも植えられており、春から初夏にかけて可憐な花を咲かせます。

 

氷室池は、大きな池としては護岸に石組などがなく、土の岸となっています。これは江戸時代から変わっていないようですが、大池にもかかわらず護岸石組がないというのは江戸時代の庭園には珍しく、江戸時代より前の様相を残しているのかもしれません。

 

この「氷室池」は、山科区内でも有数の水面らしく、年によっては冬にかなりの数のガンカモ類などが羽を休めます。周辺の宅地化で数は減る傾向にありましたが、近年、水鳥が増え、山科区内の定点観測地にもなっています。

ちなみに、山階鳥類研究所を創設した国際的な鳥類学者・山階芳麿博士は、ここ勧修寺の門跡を江戸時代末期から継承していた山階宮家の出身です

 

平庭には、「勧修寺形」と呼ばれ、水戸光圀寄進とも伝えられる背の低い起り(むくり)笠のユーモラスな灯篭があります。ヒノキ科の潅木ハイビャクシンがこの灯篭と周囲を覆い、一面に緑の波がうねるように茂っています。また、江戸時代に御所から移植された「臥竜の老梅」(白梅)、ヤマモモの古木、ハゼノキなど様々な樹木があり、彩りを添えています。

手入れのポイント

勧修寺境内からは東山と醍醐の山々が望め、それが庭の借景となってきました。しかし、昭和38年(1963年)に開通した名神高速道路が敷地の北側から西側にかけてのすぐ脇を通ったために景観が損なわれ、騒音もひどくなりました。そこで勧修寺ではモウソウチクで道路を隠すことに決め、10年間をかけて長さ約50mにわたって竹の林を作りました。

 

このことを報道で知った日本道路公団が、勧修寺の努力に応えて道路わきを造成し、竹、ツバキなどで道路を修景しました。景観に配慮した高速道路緑化の先駆けです。これにより、騒音などもかなり減少したとのことです。筑波常遍住職は「年に少しずつ竹を殖やしていったように、みなが地道な努力を続ければ、景観のような大きな問題も解決は可能」と話しています。

 

勧修寺は、築地塀が美しい表参道のソメイヨシノ、ヘイアンベニシダレなどサクラの名所としても知られるようになりました。これらのサクラを植え、手入れをしているのは近隣の造園業者などのボランティアの方々です。また毎年秋には菊花展が開かれるなど、地域に開かれ、地域の人々に支えられている境内となっています。

文化財の指定/関連の文化財

昭和63年(1988年)5月に京都市の名勝に指定されています。

 

江戸時代、明正(めいしょう)院の御対面所を移した宸殿(しんでん)(京都市指定文化財)、後西(ごさい)院の旧殿を移した書院(国指定重要文化財)など貴重な宮中の建築物が境内に並びます。

引用・参考文献・資料提供

【引用・参考文献】
・亰都名勝記、京都市參事會、1903
・京都名園記(中)、久恒秀治、1968、誠文堂新光社
・日本庭園史大系 第2巻 飛鳥・奈良・平安の庭、重森三玲・重森完途、1974、社会思想社
・日本庭園歴覧辞典、重森三玲、1974、東京堂
・集成 日本の古庭園(下)、岡崎文彬、1985、同朋舎
・京都市の文化財第6集、京都市文化財保護課、1989
・中根金作京都名庭百選、中根金作、1999、淡交社
・日本の庭園(下)名庭鑑賞、1994、日本通信教育連盟
・京都・山城寺院神社大辞典、1997、平凡社

【取材協力および資料提供】
勧修寺

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