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東本願寺 渉成園(枳殻邸庭園)  しょうせいえん(きこくてい)

庭の概要

所在地 京都市下京区下珠数屋町通間之町東入東玉水町
電話 075-371-9210(直通)
075-371-9182(真宗大谷派宗務所)
作庭年代 江戸前期
作庭者 本文参照
様式 池泉式
寺社の創建年代
文化財指定・登録状況 国の名勝
敷地面積 約35,000㎡(文化財指定面積)
公開状況 公開(志納金)

歴史・いわれ

東本願寺 渉成園(枳殻邸庭園)の画像 「十三景」の回棹廊(かいとうろう)付近から
漱枕居(そうちんきょ)の方向を望む

渉成園は東本願寺の飛地境内地です。本願寺は、はじめ京都東山の麓の大谷にあって、親鸞聖人(1173~1262)の遺骨と御影像を六角の小堂に納め、「廟堂」「御影堂」とよびました。慶長7年(1602年)、徳川家康は本願寺第11代顕如上人の長男、教如上人に現在地の東六条の寺地を寄進、これによって東本願寺が成立しました。

 

渉成園が東本願寺の寺地となったのは、寛永18年(1641年)に将軍徳川家光が時の東本願寺第13代宣如(せんにょ)上人に寄進したことに由来します。このとき与えられた土地は約22.4haにもおよび、宣如上人はこの土地の開拓を進め、それがほぼ完了した承応2年(1653)に隠退しますが、その隠居地として、この開拓地の一部をあてたのが渉成園です。

 

渉成園の敷地はほぼ正方形に近く、一辺が100間(約180m)あったために「百間屋敷」とも、また外回りにカラタチ(枳殻)を植えていたために「枳殻邸(きこくてい)」ともいわれました。正式な「渉成園」の名は、中国の詩人陶淵明(とうえんめい)が官を辞して故郷に帰り、故郷での田園生活をうたった『帰去来辞』の一節から採られたものです。

 

渉成園の造営は、おそらく宣如上人隠居の前から始められていたと考えられますが、最終的に渉成園の庭園や建物がすべて完成したのは、宣如上人の亡くなる万治元年(1658年)の前年(明暦3年・1657年)のことだったようです。庭がいつから作られ始めたかは確かな記録がありませんが、先に居宅部分を造営し、庭の方はいくらか遅れて作られたと思われます。

 

作庭者については、詩仙堂(京都市左京区一乗寺)を営んだ詩人・書家の石川丈山の名が以前より挙げられています。江戸時代初期の文書資料から宣如上人と石川丈山(いしかわじょうざん)の関係が明らかになるにつれ、石川丈山の関与した可能性がかなり高いと考えられています。また作庭にあたっては宣如上人の意向もかなり含まれていたと思われます。

 

※石川丈山(1583~1672)……江戸初期の儒者、漢詩人。父信定は徳川家康に仕えてきた三河武士の一族で、父の死後、丈山も16歳から家康に仕えましたが、大坂夏の陣で手柄を立てたのを最後に退官。林羅山らと交わり、儒学を学び、漢詩人となりました。作庭家としても有名で、隠棲生活を送った詩仙堂(左京区)の庭園を自ら作ったほか、渉成園や一休寺の酬恩庵庭園(京田辺市)などが丈山の作といわれています。

 

また当地には東本願寺の寺地となる以前、源融(みなもとのとおる)ゆかりの平安時代の庭があったという説もありますが、種々の文献資料により現在はその可能性は否定されています。

 

渉成園の庭は、敷地北西寄りの小さな池から、東南寄りの大きな池(印月池)まで、遣水(やりみず)でつながれ、大きな池には中島を作り、橋を架け、瀟洒(しょうしゃ)な茶亭・縮遠亭(しゅくえんてい)などを設けた回遊式の庭園です。

 

※回遊式(かいゆうしき)庭園……庭の中を歩きながら、池泉・築山・芝生等を鑑賞する庭園の様式。とくに、景観の変化を楽しむため、いくつかのポイントで視線、視界を計算し、順路を定めたもの。江戸時代の大名庭園の多くは、名勝を縮小して再現した「縮景」を含む回遊式となっています。

 

印月池の水が昭和40年代(1965年ごろ)に漏水のため干上がるなど、庭が荒れた時期がありました。そのため昭和50年(1975)から徐々に本格的な修復が行われ、かつての姿を取り戻してきました。

見所・みどりの情報

東本願寺 渉成園(枳殻邸庭園)の画像 上流側(北側)の小池と臨池亭(りんちてい)

大きな池(印月池)は敷地の中心より、かなり東南に寄っています。このため、明治以後に敷地が削られたという見方もありましたが、古絵図などから、造営当時と敷地は変っていないことがわかっています。渉成園の庭は、庭の中をめぐって観賞する回遊式の庭ではあるものの、池の外周を一周できる作りにはなっていない、独特の形体を持つといえます。

 

中国の「西湖十景」にならうかのように「渉成園十三景」が命名され、その風雅さは渉成園を訪れる人が賞賛しており、ことに頼山陽(らいさんよう)が文政10年(1827年)に書いた『渉成園記』は庭の美しさを余すところなく記したものとして有名です。

 

この『渉成園記』の書かれた時期まで渉成園は火災に遭っておらず、造営当初の姿そのままが残っていたと考えられますが、惜しいことに江戸時代末期の2度の火災により、建物はすべて焼失してしまい、今ある建物は明治に復興されたものです。しかし、火災以前の状況に復元してあり、頼山陽が賞賛したかつての姿を今も眺めることができます。

 

中島の茶亭に行くのには舟を利用するなど、あまり形式にこだわらない、自由な雰囲気の作りの庭であったようです。池岸の水面に乗り出して設けられた茶亭や、屋根のついた橋(廊橋)など、随所に中国的な雰囲気が見られるなど、隠居屋敷という、形式張る必要のない私的な空間に相応しい、後楽の庭ということができるでしょう。

 

十三景の一つ「傍花閣」はその名の通りサクラを眺めるために建てられた、山門の形をした珍しい建物です。周囲には、緋寒桜が咲く3月中旬からボタン桜が終わる5月中旬までの約2カ月間、種々のサクラが替わる替わる咲き続けます。

 

また、傍花閣の近くには、イブキの枯れた巨樹2本があります。イブキはビャクシンとも呼ばれ、成長の遅いヒノキ科の針葉樹です。樹齢は不明ですが、幹周は大きい方で4.8mもあり、数百年以上と考えられます。

 

庭の北東側にあるイチョウは約27mの高さがあります(下京区民誇りの木)。戦後しばらくは京都駅からも見えたといいます。

手入れのポイント

渉成園の管理を長年行ってきた造園業者の植彌加藤造園によると、冬の池には水鳥が訪れ、夏の樹林では昆虫が羽化するなど、様々な自然の営みが見られます。付近には渉成園の他に大きな樹林が少ないため、「完結した1つの生態園のようにも感じることがある」ほどだそうです。

 

芝生を前にした閬風亭から眺めると、東山の阿弥陀ヶ峰が望めます。近年、周囲の高層建築や電線などを隠すため、樹木の剪定をぎりぎりの高さに設定し、違和感が少ないように配慮しているとのことです。

 

かつて池の水源は高瀬川から分流した水路でした。明治23年(1890年)に琵琶湖疏水が開通すると、蹴上に東本願寺用の水槽が設けられ、防火用などに境内まで専用の鉄管を布設し、本山の掘割や渉成園に引き込みました。疏水の水を引き込んでいるため、池には琵琶湖の魚介類も混じっているそうです。近年、鉄管が老朽化し水の出が悪くなっているため、現在は地下水で不足分を補って清流を保っています。

文化財の指定/関連の文化財

渉成園は昭和11年(1936年)に国の名勝に指定されています。

引用・参考文献・資料提供

【引用・参考文献】
・都林泉名勝図会、秋里籬島、1799
・各寺院名所図会2大谷派本願寺名所図会、1902、博文館
・日本庭造法図解(第3版)、杉本文太郎、1911、建築書院
・現在庭園図説、椎原兵市、1924
・京都名園記(上)、久恒秀治、1969、誠文堂新光社
・集成 日本の古庭園(下)、岡崎文彬、1985、同朋舎
・造園の歴史と文化、京都大学造園学研究室、1986、養賢堂
・京の茶室 千家・宮廷編、岡田孝男、1989、学芸出版社
・日本史小百科19庭園第3版、森蘊、1990、近藤出版社
・中根金作京都名庭百選、中根金作、1999、淡交社
・渉成園 その意匠と美、真宗大谷派(東本願寺)、2002
・庭園学講座10 文化財庭園の保存管理技術、京都造形芸術大学・日本庭園研究センター、2003

【取材協力および資料提供】
東本願寺
植彌加藤造園株式会社

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