梅小路公園の紹介

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「梅小路」の地名、西高瀬川、梅小路駅について

梅小路の歴史

 通りとしての梅小路は、幅4丈(約12m)の小路として設けられました。名称は平安時代にさかのぼります。「梅小路」という呼び方が一般的でしたが、「梅ヵ小路」(むめかこうじ)と呼ばれることもあったようです。

 地名としての梅小路は、平安京域内の延喜坊に属し、境域は、東西が朱雀大路と西坊城通、南北が八条大路と塩小路に囲まれる区域です。地名は、集落が通りの梅小路の北にあったことによると考えられます。また、ここには八条大将と称された藤原保忠の伝領地があって大将町と呼ばれていました。

梅小路公園付近の地図

 平安末期には、平清盛の「西八条第」(にしはちじょうてい)が南北は八条大路と八条坊門小路、東西は大宮大路と坊城小路の6町に造営され、また同時期に八条女院御所も八条大路を中心に造営されていました。しかし、西八条第は寿永2年(1183)7月25日に平氏一門自らの手で火を放たれ焼失しました。

西八条第(にしはちじょうてい)について

 以後、鎌倉・南北朝期の東寺百合文書にも「梅小路」・「梅小路町」の記述があり、室町時代には掃部寮(かもんのりょう。宮内省の令外官)領が存在したと推察されています。

 江戸時代に入ると、山城国葛野郡梅小路村となり、石高は江戸時代を通じて347石。支配は享保14年(1729)の「山城国高八郡村名帳」・「旧高旧領」では松木家領20石・園家領87石・櫛笥家領49石余・藤浪家領32石余・竹内家領72石余・土御門家領86石とあります。「京雀」、「都名所車」などの江戸の地誌類では、梅小路通について、田畑のみで家はないと記しています。

 梅小路に残る風俗としては、村には読経と木魚に合わせながら丸太を青竹で叩くジジバイ講という豊作祈願の行事があり、毎年1月8日に梅林寺で行なわれています(京都市登録無形民俗文化財)。

 明治元年(1868)に京都府葛野郡梅小路村(かどのぐん・うめこうじむら)となり、その時の様子は、「京都府地誌」(1881年)には、字は北頭・分木・日ノ尻・東頭・坊門・石橋・七屋敷・鍵田・西頭・西裏・五反田の11あり、戸数28、人口138、田15町7反余、畑1町1反余、物産は芋・葉藍・菜種、神社に稲荷社・稲生社、寺に宝蔵寺・梅林寺、畑地は「菜蔬適ス」、水田は「地力薄シ」などと記されています

 以後、明治22年(1889)に京都府七条村(しちじょうむら)字梅小路となり、1918(大正7)年に京都市下京区に編入され、下京区梅小路日影町・石橋町・中町・頭町の4町となりました。さらに1960 (昭和35) 年には、梅小路4町と周辺の町名や町域が再編され、現在に至ります。

梅小路と西高瀬川

 江戸時代末期の西高瀬川の開削は京都の物資の流通にとっては大きな利点がありましたが、河川付近の田畑にはかならずしも利点となりませんでした。

 梅小路近辺では従前より堀川の水を農業・その他の用水として使っていましたが、川幅3間1尺2寸(約5.8m)の小規模河川であったため、上流部と下流部で水に関する争いが起こっていました。

 西高瀬川の開削は、堀川から水を引く計画が文政年間に立てられましたが、文政7年(1824)に梅小路村を含めた葛野郡11村が、水量の減少と水質の悪化を懸念して不安を訴えました。このときの計画は実施されませんでした。

 その後、文久年間に河村与三右衛門により改めて計画が立てられ、文久3年(1862)に開削が行われました。この時は新たに水路を開削せずに既存の水路を拡張したようです。この西高瀬川の開削により洛西の物資運搬能力は飛躍的に向上ましたが、輸送力には限界がありました。明治2〜3年(1869〜 1870)に京都府による付け替えが行われ、明治3年7月2日から通船が行われました。

 新水路も水量不足のため、嵯峨からの荷物運搬に数日を要するなど、必ずしも便は良くなかったようです。それでも明治17年(1884)には丹波地方の流し筏による木材の輸送が許可され、木材が京都市中に運び込まれ、千本三条以南には材木業者が数多く集中するようになりました。

梅小路駅

 梅小路駅は、現在、日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物駅です。
もとは1876(明治9)年、三哲通(さんてつどおり)西洞院(にしのとういん)東に開設されました(京都機関庫)。その後、1913(大正2)年には現在の梅小路公園部分を含めた22万2220坪(約73.5ha)の敷地が買収され、1914年にもとの京都鉄道の二条機関庫と京都機関庫の機能をあわせた梅小路貨物駅が竣工し、京都の貨物を担当する駅となりました。

 また、1994(平成6)年に梅小路公園で開催された第11回全国都市緑化フェアの最寄の臨時駅として、約2ヶ月間だけ、山陰本線(嵯峨野線)京都駅−丹波口駅間に「緑化フェア梅小路駅」が開設され、多くの来場者が利用しました。

平安時代の西八条第、鴻臚館と梅小路公園

西八条第(にしはちじょうてい)

 西八条第(にしはちじょうてい)は、平家一門の邸宅群のあった場所で、それを総称して「西八条第」(「八条亭」とも)と呼びました。有名な平清盛だけではなく、他の平家一門もここに邸宅を構えていました。平安京左京八条一坊の東を大宮大路、西を坊城小路、北を八条坊門小路、南を八条大路で囲まれた区域にありました。広さは一般に6町(八条一坊五町・六町・十一町・十二町・十三町・十四町)とされますが、一時期は八条一坊三町含む7町あったとする説もあります。

梅小路公園 河原遊び場付近の看板
梅小路公園 河原遊び場付近の看板

 創立の年代ははっきりしませんが、平安時代後期の仁安年間(1166縲・169)ころと考えられています。はっきりした史料での初見は承安5年(1175)です。
治承5年(1181)、清盛の死去2日後に火災で焼失しました。再建された西八条第も、寿永2年(1183)、平家一門が木曽義仲によって平安京から追われる際に、平家自ら火をつけて焼失させたと考えられています。

 現在の地名では、下京区の観喜寺町、八条坊門町、南区の八条坊門町、八条町に当たり、梅小路公園の「芝生広場」やJRの線路などに重なります。梅小路公園は平安建都1200年を記念し、1995(平成7)年オープンしましたが、埋蔵文化財の発掘調査で、西八条第の一部とみられる遺構が発見されました。このため、公園敷地には京都市営地下鉄(東西線)などの工事で生じた残土を盛り(厚さ約1.5~6m)、遺構を壊さないよう造成が行われました。梅小路公園の地形は、平安時代の歴史も関係しているのです。

梅小路公園、朱雀の庭にある石碑
梅小路公園、朱雀の庭にある石碑

鴻臚館(こうろかん)について

 鴻臚館(こうろかん)とは、外交使節の接遇のために設けられた、現代でいえば迎賓館に当たる施設で、九州(大宰府)、大阪(難波)、京都の3ケ所にありました。

 京都には東西2つの鴻臚館があり、朱雀大路(当時)をはさんで右京・左京の七条一坊三町・四町にそれぞれ設けられたと考えられます。現在の梅小路公園「七条入口」から七条通をはさんだ北側付近に当たります。当初は東寺・西寺の境内となる場所に設けられ、後に七条一坊に移転したとする説もあります。鴻臚館創立の年代ははっきりしませんが、史料では弘仁元年(810)が最も古い記録となります。

 当時朝廷が受け入れた外交使節は渤海国のみであり、2つの外交使節を接遇する必要がないため、東鴻臚館は承和6年(839)に廃止されました。西鴻臚館は渤海国の使節が訪れた延喜8年(908)までは存在していたことが史料により確認できますが、延長4年(926)に渤海国が滅ぶと、鴻臚館の必要性はなくなったため、その後廃止されたと考えられます。

 近辺の発掘調査で遺構は確認されていませんが、戦前に西鴻臚館のものと推定される緑釉瓦が発見されています。

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