地蔵院(竹の寺)庭園 じぞういん
庭の概要
所在地 | 京都市西京区山田北ノ町 |
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電話 | 075-381-3417 |
作庭年代 | 本文参照 |
作庭者 | 本文参照 |
様式 | 枯山水 |
寺社の創建年代 | |
文化財指定・登録状況 | 京都市の名勝 |
敷地面積 | 約400㎡(文化財指定面積) |
公開状況 | 公開(有料) |
歴史・いわれ
地蔵院は竹林の美しさで知られる臨済宗の寺院です。幼少のころ近くに生家があった一休禅師(1394~1481)が修養の場としていた寺としても知られます。
地蔵院の地はもともとは、衣笠内大臣といわれた歌人の藤原家良(いえよし)(1192~1264)が山荘を営んでいた場所ですが、貞治6年(1367年)もしくは応安元年(1368年)に室町幕府の管領であった南北朝時代の武将・細川頼之(よりゆき)(1329~1392)が尼僧妙性(みょうしょう)から土地を買取り、寄進したことに始まります。
開山は碧潭周皎(へきたんしゅうこう)すなわち宗鏡(そうきょう)禅師ですが、その師匠であり、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭などで有名な夢窓疎石(むそうそせき)を勧請して第1世とし、碧潭周皎自身は第2世となっています。
※夢窓疎石(夢窓国師)……鎌倉時代から室町時代にかけての著名な禅僧。各地を巡遊、寺を開基し、自らも作庭を行いました。京都市内では西芳寺(苔寺)、天龍寺の庭園などを手がています。疎石は法諱。
碧潭周皎が亡くなり、「宗鏡」の諡(おくりな)を得てこの地蔵院に葬られた後、細川頼之もまた遺志により死後地蔵院に葬られ、2人の墓石と伝えられる石が境内に並んで安置されています。
細川氏に由来する寺院であるためか、当時の朝廷の信仰も厚く、室町時代には京都五山に匹敵する特権を与えられるとともに、多くの寺領が寄進され、隆盛を極めました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477年)によりすべての堂舎は焼失し、さらに復興後に天正の大地震(天正13年・1585年)で大きな打撃を受けますが、細川家の援助もあり江戸時代中頃には復興しました。
庭は宗鏡禅師作と伝えられますが、貞享3年(1686年)に建てられた方丈の南側にあるため、方丈と同時期に整えられたものと考えられています。
庭の中には30個ほどの石が各所に据えられています。ツバキ、モミジ、ゴヨウマツなどが植えられており、とくに築山や池などを築かない、平庭形式の枯山水庭園です。
据えられている石の形は様々ですが、比較的均等に配置され、羅漢(悟りを開いた修行者)の立ち並ぶ姿を象徴させるような据え方となっているため、「十六羅漢(らかん)の庭」と呼ばれています。地面にはコケが一面に生え、落ち着いた感じをかもしだしています。
庭の中で特徴となるのがツバキの花です。ワビスケやソデカクシといった品種の他に八重咲きのツバキが植えられており、3月下旬から4月にかけて入れ替わりに花を着け、目を楽しませてくれます。
見所・みどりの情報
この地蔵院は、別名「竹の寺」と呼ばれているように、境内に涼しげな竹林が広がり、落ち着いた雰囲気のある空間が作られています。また要所要所に植えられているモミジが秋に彩りを添え、竹林の緑との対比を見せます。
地蔵院は細川家由緒の寺として、今でも細川家の方々が参拝に来るなど関係は深く、藤田守浩住職は「信仰の薄くなった時代でも、昔のご縁でお参りに来て、庭を見て下さるのは大変嬉しい」と話しています。
手入れのポイント
境内の竹林を美しく保つのは大変で、庭木の手入れと合わせて業者に頼んでいるほか、住職自らも間伐などの作業をこなされています。
コケの管理には気を遣うものですが、地蔵院では、コケは水をやりすぎると水の多い環境に慣れてしまい、却って乾燥に弱くなるので、夏場はできるだけ水をやらないようにしているそうです。
文化財の指定/関連の文化財
昭和62年(1987年)5月、方丈が京都市有形文化財(建造物)に、方丈に面した庭園が京都市の名勝にそれぞれ登録されています。
境内は、文化財を周辺環境とともに保全するための京都市文化財環境保全地区に指定されています。
ご注意
庭と建物(方丈)は写真撮影禁止です。(当ページの写真は地蔵院の許可を得て撮影・掲載したものです。)
引用・参考文献・資料提供
【引用・参考文献】・京都市の文化財第5集、京都市文化財保護課、1988
・京都・山城寺院神社大辞典、1997、平凡社
・造園用語辞典、東京農業大学造園学科、2002、彰国社
【取材協力および資料提供】
地蔵院